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186年の時空を越えて | リコルド、嘉兵衛を語る 滞在日記

 

高田屋嘉兵衛翁生誕230年記念事業

高田屋塾

アナトリー・チホツキー氏講演会記録
「高田屋嘉兵衛とゴロウニン・リコルドとの友情 
        −その今日的な意義」

日時:平成11年10月4日(日)午前10:00〜
場所:高田屋嘉兵衛公園

 

親愛なる高田屋嘉兵衛を愛する皆様!

今回皆様の素晴らしい国を訪れるまたとない機会を頂き、そこに住む

人々とお近付きになれ、また日本の文化と歴史に少しでも触れる機会を

得られましたことに心から感謝申し上げます。

そして私の遠い祖先ピョートル イヴァノヴィッチ リコルドの生涯に深く関わった、

日本の友人であり、著名な豪商で社会活動家でもある高田屋嘉兵衛ゆかりの

場所を訪れるという私の長年の夢が叶い大変嬉しく思います。

P. I. リコルドは同時に著名な航海士であり、地理学者であり、研究者であり、

海軍大将であり、そしてペテルブルグ科学アカデミーの準会員でありました。

 彼らの友情は大変複雑で劇的でさえある諸々の事件の中で生まれました。

そしてそれは厳しい試練に耐え、素晴らしい成果を挙げました。そしてこの友情は

二人の偉大な人間の生涯にわたって続いたのです。これらの事件が起こったのは

今から約200年前、19世紀まさに初頭、最初の世界一周旅行がなされた後で、

地球がそこに住む全ての民族の共有の家であるという認識が広がり始めたばかりの頃

でした。  今、我々にはこの家がどんなにもろいものなのか、我々がお互いに依存して

生きているということは周知の事実です。しかし、当時、七世代前にはこのことは全く

意識されませんでした。  何世紀にもわたって日本の統治者は鎖国政策を取り、

外国船を自国の港に通さず、自国の商人に対外貿易を許可しませんでした。

 そのような中1811年日本の海岸にV. M. ゴロヴニン艦長とP. I. リコルド副艦長

指揮下にある"ディアナ号"が現れました。彼らの課題はクリル諸島の正確な位置を記録し、

その海岸線を地図に載せることでした。これはロシアだけにとって重要なことでは なく、

世界中の船乗りが無事に航海するために必要なことでした。 科学のために必要なことで

あったのです。

 

 1806年からその時までに、ゴロウニンとリコルドは大西洋、インド洋、太平洋の 3つの大洋の

航海を経験済みでした。彼らはすでに2年間太平洋北部の海洋測量研究に携わり、カムチャッカ、

アラスカ、アリューシャン列島、クリル諸島、ウダ川までのタタール沿岸とシャンタル諸島の海岸線

起伏を調査していました。  しかし! クナシリ島記述の最中、ゴロウニン艦長は二人の士官と

6人の水兵と共に捕虜として捕まりました。

日本人によるこの行為はダヴィドフとフヴォストフが日本人の村落を掠奪したことに対する

報復措置でした。しかし不法者らの身勝手な襲撃であったのが、そのような族は

どのような政府も罰しなければなりませんが、そこで捕虜とされたのは皇帝直属の軍事調査船の

艦長であったのです!! 2年以上にわたりゴロウニン艦長と彼の同志は抑留され、

その間中彼の誠実な友リコルドは日本の沿岸に3度航行し、彼の釈放に向けて努力していました。

 まずリコルドはカムチャッカ沖の難破で救助された6人の日本人とフヴォストフにロシアに連れ去られた

日本人の良佐衛門(レオンザイモ)を連れてきました。しかし幕府は交渉に入るのさえ拒否し、

リコルドは連れてきた日本人を海岸に手紙を付けて下船させるよう指示しました。

翌日その一人から、ゴロウニン始めロシア人捕虜が全員殺されたという知らせが入りました。

 敬愛する艦長の死を知り、ロシア人船乗り達は仇を討とうとします。 これによって日本は自ら

ロシアとの戦争の一歩手前という状況を導いたのです!  

 

 このような劇的な状況でまさに天がリコルドに高田屋嘉兵衛を遣わせたのです。

リコルドの命により、高田屋嘉兵衛の商船は止められ、その船主である彼はリコルドの船に連行されました。

この時リコルドは彼からゴロウニン提督とその同志は生きており、松前に 連れて行かれた後は

それ相応の状況下で暮らしているということを聞かされました。  この豪商であり、大変有能な先進的

人間である高田屋嘉兵衛の参与がゴロウニン釈放に 向けてどれほど重要な意味を持つか十分承知

していたリコルドは、彼をカムチャッカ州長官の元に連れて行きました。 リコルドがゴロウニンとの交換

という目的で高田屋嘉兵衛を捕虜としたという原始的で短絡的な考えは全く間違ったものであります。

これでは目的も事実も正しくありません。 リコルドはこの件において自分を助けてくれるよう彼を説得

したのです。高田屋嘉兵衛も自分の重要な役割を理解し、リコルドを手助けすることを承知したのです。

 

 今日我々と皆様の元には露日辞書、通訳、教科書、文化センター、そのような機関等が あることを

考えますと、これらのものがまるでなかった時代に彼らがどのようにお互いの意思を交換し合ったのか

想像することさえできません。まさに良き事を為すという善意の願いだけが彼らをお互い理解せしめ、

言葉の壁を克服するのに力を貸したのでしょう。  このようにして彼らの友情は生まれたのです。

 船上でリコルドは彼を自分の艦長室に住まわせ、その交流の中から、お互いを理解し合う

ようになりました。 カムチャッカ到着に際して、高田屋嘉兵衛は自分も日本にいるロシア人と同様

厳しい勾留状態に置かれるであろう事は覚悟していました。しかし、彼の驚きはどれほどだった

でしょうか。彼はリコルドと一緒の屋敷の中で、それも彼と一緒の部屋さえあてがわれたのです。

長い冬の夜なべ、彼らは哲学や自国の慣習、国家機構について談義を交わし、お互いをよく

理解しようと努めました。リコルドはそのときの高田屋嘉兵衛との談話の最良の思い出を生涯暖めました。

そして自己の著作や文書の中で、あるいは友人との会話の中で、 リコルドは常に高田屋嘉兵衛を

「聡明で教養があり、有識者、良心的な人物」と呼んでいました。  高田屋嘉兵衛の協力によって、

ロシアの軍司令部に捕虜の生存と軍事行動を取るのは時期尚早だということを納得させることができました。

これがまず第一の点です。第二に、彼の最も重要な役割は、彼が日本の憤慨と要求の本質を明らかにし、

それらの克服にどう行動するのが最善かを示唆したことにあります。そして、第三に、自国の文化と特質を

知る彼は、リコルドと幕府との交渉を日本側の礼儀作法に従って最善の状態で計画する手助けをしました。

我々が知るところでは、必要とされるあらゆる詫び状、調査書、友好的な手紙が書かれ、

礼儀作法は全てその通りに従って行われ、捕虜は釈放され、そして彼らは堂々と祖国に帰ることが

できました。露日間の衝突は解決しました。 血を流すことなく。 一方ロシア海軍士官、後の海軍大将

P. I. リコルドと日本人実業家で社会活動家の 高田屋嘉兵衛は生涯この時の友情の記憶を持ち

続けました。 

この友情に特徴的なものは、お互いの相手への共感と尊敬の思いと並んで、この友人達は

次の4つの点を常に考慮に入れていました。(それは往々にして相容れないものですが)

―自己の望み

―自己の名誉への義務

―友人の望み

―友人の名誉への義務

常にこのことを考慮していたおかげで、彼らは緊迫した衝突の状況をいがみ合いまで発展

させることなく、とても複雑な課題を見事に解決したのです。 当然のことながら、この二人の

人物はその時代のはるか先を行くものたちでありました。しかし、願わくは、我々も彼らのもとに、

自分の義務を果たすこと、そして自分の友人にも果たさなければならない義務があることを

念頭に置くべきなのです。

 ここに松前奉行の全く的を得ている言葉があります:

「各国それぞれ相異なる固有の習慣を有しているが、

真に正しきことはいずれの国においても正しきものと認められる。」

(訳 金子 百合子)