追悼 高田嘉七氏

追悼 高田嘉七氏

2012年1月12日、ロシア地理学会は「高田さんのお別れ会」を開きました。この会で私は『新しい日露外交、そして公的関係の歴史に貢献した高田さん』の演題で報告をしました。会には川端サンクト・ペテルブルグ総領事他、50名近くの参加がありました。雑誌『レクイエム』掲載の高田さんの訃報記事と会の写真を送ります。日本の高田さんに関する新聞記事を送っていただけると、幸甚に存じます。
ピョートル・ゴロヴニン(ゴロヴニン子孫)
2012.1.17

2012年1月21日、函館称名寺でのお別れ会は雪でした。

ひとつひとつの品が、氏が心血を注いだ日ロ民間外交の証です。お別れ会の会場では、嘉七氏と親交の深かった称名寺住職である須藤隆仙氏から「去此不遠(こしふおん)」という言葉を教わりました。氏の思いは、ここを去ること遠からず。

私たちの親愛なる友人である高田嘉七氏の訃報に接し、心よりのお悔みを申し上げます。氏は偉大な日本の英雄、高田屋嘉兵衛の最もふさわしい後継者であり、ゴロヴニン事件関係者子孫間のリーダーの一人であり、その友情という偉大なアイデアの熱烈な支持者でありました。氏がいなくなることで、私たち全員の心に穴が開いたように感じられます。 ご遺族の皆様に心よりのお悔みを申し上げます。

2011 年 11 月 30 日
アナトリー・チホツキー
(リコルド 6 代目子孫)
高田さんの訃報は誠に残念です。氏は優れた著名人であり、日露関係に多大な貢献をされました。氏はロシア地理学会のメンバーでありました。 12 月 15 日、本会でも追悼の会をとりおこないました。私たちは起立して、氏に一分間の黙とうを捧げました。この会で私たちは、翌 1 月 12 日に高田さんの功績を称える特別な会を開くことを決定しました。私たちゴロヴニン・リコルドの子孫と高田さんとの出会いを報じた映像も流す予定です。この会で私は、「日露民間外交の新たな歴史に価値ある貢献をした高田嘉七氏」という演題で報告を行います。ペテルブルグ日本国総領事をお招きしたいと考えています。

ピョートル・ゴロヴニン
(ゴロヴニン子孫)

1985 年の洲本市講演「菜の花の沖について」の中での司馬遼太郎氏の言葉です。死ぬときに「大将、ウラァ」ということがあるかないか。あの瞬間がおれの人生だったという思い出を持つかどうかが、大事だと思います。
高田嘉七氏のご友人のお一人から、出棺の際に、みんなで「ウラー、タイショウ」の声で送り出したとのお話をうかがいました。 地球半周を隔てたロシアから、私たちも声を合わせますとチホツキー(リコルド子孫)ご家族からのメールがありました。去り際があまりにあざやかすぎて、いまだにあの優しいお声でお電話がかかってくるような錯覚にとらわれることがありますが、嘉七さん、良い人生でしたね!

2011 年 12 月 17 日