>
親愛なる友人のみなさま!

本日、この喜ばしき祝賀の日にあたり、高田屋嘉兵衛翁顕彰会の皆さま、姉妹都市
五色町の皆さま、町議会の皆さま、また、記念碑の製作者であるナタリヤ=マクシモヴァ様、タマーラ=ドミトリエヴァ様、そしてこの素晴らしい企画の実現に向けて準備をして下さった全ての方々に心からお祝いの言葉を申し上げます。

ようやく、ブロンズ像の高田屋嘉兵衛はブロンズ像のリコルドと再会を果すことができ ました。これは高田屋嘉兵衛にとって二度目のロシアへの航海でした。しかし、今回は 自分の友人ともう決して離れ離れにならないための航海であったのです!まさに彼らの 友情が信頼関係を生み、その信頼関係は捕虜となっていたロシア船員の釈放、日露 政府間の信頼の回復、その後の国家関係の基盤の構築といった素晴らしい成果をもたらしました。

この素晴らしい記念碑には歴史上の真実の瞬間が大変活き活きと刻まれています。その瞬間とは、リコルドと高田屋嘉兵衛が「ゴローニン事件」として歴史に名を残す日露政府間の紛争を解決するために和解への道を模索し対話をしている場面です。長い冬の夜を共に過ごしながら、彼らはお互いを理解すること、お互いを信じること、お互いに協力することを学びました。その結果、紛争は和解をもって解決することができ、私たちの国々にとってこの出来事は、複雑な対立を見事に克服した象徴として今尚残る大変重要な歴史的前例となりました。今、この二人の素晴らしい人物は再び共に一つの机を 囲んで座っています。私は彼らがその知性の鋭敏さと善意で、私たち両国民の親交の ために新たな活路を与えてくれることを願います!そして、まさにこの記念碑の除幕式 そのものがこの方向に向かう大変重要な一歩であるということを確信いたします。新世紀が このような輝かしい出来事で幕を開けるということは実に喜ばしいことです。

それでは、親愛なる友人の皆さま、二十一世紀の五月晴れの今日の日から、今から 二世紀前の十九世紀初頭、一八一三年十月十日まで皆さまの意識を遡らせてください。 嘉兵衛の助けを借りたリコルドは日本側の高官達と交渉を行い、ロシアの捕虜達を 引取りました。全ての手続が終了し、今後の両国関係に関する大変重要な予備交渉が 行われた後、帆船《ディアナ》号は函館湾の内海から湾口へ向かいます。大変多くの 小船がロシア船を見送るために出港し、帆船を湾口まで送りました。そのうちの一艘には、リコルドが次のように名づけるところの《熱意にあふれた我が友尊敬すべき高田屋嘉兵衛》が乗っておりました。ついに別れの瞬間が来たとき、湾口に出た《ディアナ》号のすべての乗組員は、感謝と尊敬の念を込め、度量の大きい聡明な高田屋嘉兵衛に向かって「ウラァ、タイショウ!」「ウラァ、タイショウ!」「ウラァ、タイショウ!」と三度叫びました。日本語で「タイ」とは大きいことを意味し、「ショウ」とは指揮官を意味します。リコルドと嘉兵衛は、概して、お互いに名前で呼び合うような仲でしたが、厳粛な場面では、リコルドは嘉兵衛のことを「タイショウ」と呼び、嘉兵衛はリコルドのことを皇帝の艦長さん」と呼んでいました。

このロシアの船員たちによって発せられた「ウラァ、タイショウ!」という感謝の文句は、 歴史の1ページに刻まれ、象徴的なものとなりました。司馬遼太郎の歴史長編小説 『菜の花の沖』には次のような場面の描写があります:死期が迫っている嘉兵衛は枕元に集まった人々に、「ドウカ、タノム。ミンナデ、タイショウ、ウラァ、と喚んでくれ。」と頼みます。しかし、この死にゆく人間がこの最後の訴えに何を望んでいたのか、誰も理解することができませんでした。司馬遼太郎氏は、「菜の花の沖」についてという講演の中で、次のような意味のことを 語ったそうです。


『嘉兵衛にとって、大きな廻船問屋の頭になったり、大臣の地位を得たりすることが 人生の目的ではなかった。そのようなものはそれほど重要ではなく、重要なのは、自分と 時を共有する人々の心からの感謝を受け、「ウラァ、タイショウ!」と敬意を込めて呼ばれたという思い出を持つ幸福な人間であるということだ。』

・・・・・しかし、危篤の嘉兵衛を取り囲む当時の人々の中には、彼がこの今際の際に何を 訴えたかったのかわかるものは誰一人としていなかったのです・・・ その時から二世紀が過ぎ去り、人々は嘉兵衛の果した功績をそれなりに評価してきました。 今私は、心の底から次のように叫びたくなるのです:「ウラァ、タイショウ!ブロンズ像となり 永遠の命を得たタイショウよ!ロシアへようこそ!クロンシュタットへようこそ!」

アナトリー チホツキー
海軍大将リコルド子孫
クロンシュタット
2002年5月25日

(日本語訳:金子 百合子)