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ダイジナコト 裂かれたハンカチとマーシャの来日

1813 年 5 月 26 日(和暦)、リコルドは嘉兵衛を伴って再びクナシリ島へ来航した。嘉兵衛は日本側との交渉のために自分を陸へやって欲しいとリコルドに頼むが、 ゴロヴニン解放へと向けた最後の切り札である嘉兵衛を、リコルドはなかなか手放す決心がつかない。ついにリコルドは意を決すると、自分のハンカチを二つに裂き、片方を嘉兵衛に渡してこのように告げた。「私が友だと信じる人物なら、 2 , 3 日の内にこの半分を持ち帰るだろう」。嘉兵衛は約束を守り、数日の後にハンカチを自分の刀に結び付けて高々とかかげ、誇らしげにディアナ号に戻って来た。二つに裂かれたハンカチは、再び一つに結び付けられた。

リコルドは、日露和親条約が結ばれた 1855 年に亡くなった。そ の死後、残された夥しい遺品の中にこの半分のハンカチが残されていた。そのハンカチにはリコルドの自筆で、日本語ロシア語が次のように書かれていた。

≪Дайзи-Нокото - залог дружбы японца Такатая-Кахи≫
(ダイジ―ナコト〔大事な事〕―日本人高田屋嘉兵衛との友情の証)

(メリニツキー著『リコルド提督と同時代人』)

1999 年、高田屋嘉兵衛翁生誕 230 周年を記念して来日したアナトリー・チホツキー氏(リコルド子孫)は、帰国間際の成田空港で自分のハンカチを二つに裂くと、片方を高田嘉七氏(嘉兵衛子孫)に渡して、きっと再会してこのハンカチを一つにしようと誓い合った。

二人が再び顔を合わせたのは、 2009 年のカムチャツカである。日本からのカヘイ峰訪問団に、サンクト・ペテルブルグからチホツキー氏とその家族が現地で合流した。 チホツキー氏がハンカチを振ってみせると、嘉七氏は自分の片方を振って応えたという。

2013 年、ゴロヴニン事件解決後 200 周年記念事業の一環として、チホツキー氏の娘マリア・チホツカヤさんの日本への招聘が決まった。マリアさんは父親のハンカチを持参したいと望んだが、嘉七氏は 2011 年に逝去し、もう片方のハンカチの行方はわからない。

高田屋顕彰館がこのエピソードを元に招聘者のためのハンカチをつくることを提案し、彼女がそのデザインを担当した。「 Дайзи-Нокото (ダイジナコト)」は、彼女の自筆である。