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仮名手本忠臣蔵十一段続一覧の図

 尾張小島屋の手船督乗〔とくじょう〕丸は、文化10年(1813)11月4日、伊豆子ノ浦出帆後難船して、 17ヶ月の間太平洋を漂流し、英国船に救助された後カムチャッカに送られ、文化13年7月に ロシア船でエトロフ島沖まで送還された。その船頭重吉〔じゅうきち〕の口述を国学者の池田 寛親〔ひろちか〕がまとめた『船長日記』という漂流談の中に、以下のような記述がある。

 カムチャツカ滞在中に、重吉はルダカウ〔ルダコフ〕というロシア人と出会った。ルダコフは、嘉兵衛の交渉相手となったロシア士官リコルドの部下〔当時は海軍少尉〕であった人物である。

……カムサスカの代官「イリヤメーラ〔苗字ナリ〕ルダカウ〔名ナリ〕と云人乗来り、ペゲツと懸合をする様子なり、随分こゝより日本へ通路よし、先々湊へ入れと云、かくてみなと〔湊〕へ入て碇をおろしけれハ、くたんのルダカウ、日本詞〔ことば〕にて日本人日本人とよひたる故、重吉出てたいめん〔対面〕したり、ルダカウいふにハ、兵庫の高田屋の嘉兵衛を知て居るかと問ふ、知てゐるよしを答えたれハ、かれも無事にて日本へ帰りたり、今ハ日本とヲロシアと軍〔いくさ〕もなくむつましくなりたれハ、 たかひによろこハし、猶〔なお〕語らん事も多けれハ、あすの朝来るへし、迎ひの人をおこすへしとい〔云〕ひて、日の暮る此になりたれハ、ルダコウは帰りぬ、かの嘉兵衛がヲロシヤへ行たる事ハ、兼て聞ゐたり、 いまハ日本へ帰りたりと聞、いかにかしたるなと思ひつゝ臥〔ふせ〕にけり、

此兵庫の嘉兵衛といふ者ハ、もと〔元〕は鳥目〔ちょうもく〕弐貫六百文ならてハなかりしを、蝦夷の事にかゝつらひて、 さまさまの工夫を仕出し、今ハ蝦夷地の事をうけあふ人となりて、大舩十七艘もちて、大坂江戸にも 出店をまうけ、松前箱たて〔館〕にてハ、凡間口三十町斗の家をかま〔構〕へ、年々運上壹万両はかりつゝも 出すやう〔様〕なる大富豪となりたり、さきにヲロシヤのふね〔舩〕エゾへ来り、乱妨せんとしけるに、其舩へ乗て ヲロシヤへ行たる大豪傑にて、ヲロシヤにても、かゝる人はまれなりとて、ヲロシヤ人も折々いひ出して舌を まき〔巻〕て居たりしとそ重吉語りき、

あくるあしたに成りて、ルダカウより迎ひの人をおこせたり、重吉一人ともなひてルダカウのもとへ行、椅子にかゝり けれハ、何くれともてなし、扨〔さて〕日本の品を見せんとて、江戸の錦絵忠臣蔵十段つゝきの絵を出して、是〔これ〕は嘉兵衛に もらひたりとて見する、又是は都ベトロツへ遣すへき物なるか、見すへしとて、嘉兵衛かもとよりおこせし消息を出したるを 見れハ、此國へ来りし時世話になりたる挨拶、扨〔さて〕此上〔このうえ〕、日本の人漂流して、其國へ着たる者あらハ、日本へ送り かへ〔帰〕して給へかしといふ事を書て、ヲロシヤ御代官ルダカウ様高田屋嘉兵衛とあるを見て、今ハ心易しと思ひたり、……

「忠臣蔵の十段続きの錦絵」

 『仮名手本忠臣蔵』は、寛延元年(一七四八)に大坂の竹本座で、人形浄瑠璃として初演された。歌舞伎にも取り入れられ、 大坂、京、江戸の三都で上演された興行は、いずれも大盛況であった。嘉兵衛がルダコフに与えたという「江戸の錦絵忠臣 蔵十段つゝきの絵」は、「江戸絵」「東錦絵〔あずまにしきえ〕」などと呼ばれ、江戸の土産として地方出身者に人気があった。拿捕〔だほ〕された時、嘉兵衛は手荷物と一緒に、この錦絵をロシア船へ持ち込んだのだろう。

 忠臣蔵十段目、堺の商人天川〔あまかわ〕屋義平は、その人物を見込まれて、大星由良之助から討ち入りに必要な武具の 調達を頼まれていた。その義平の元へ大勢の捕り手が踏み込んできて、武器を隠しているだろうと尋問する。白状しないとみると、幼い一子由松の喉に刀をつきつけて口を割らせようとするが、義平は長持ちの上に座り、「天川屋の義平は男で ござるぞ。子にほだされ存ぜぬ事を存じたとは申さぬ」と啖呵〔たんか〕を切る。そこへ由良之助が現れ、これは義平の 義侠心〔ぎきょうしん〕を試すために仕組んだことであると詫び、次のように語って舞台を去る。「花は桜木、人は武士と 申せども、いっかな武士も及ばぬ御所存。一国の政道を任せたとしても惜しからぬ器量」

 この段が特に人気を博したのは、義平が町民でありながら、観客である庶民たちの代表として、「武士とは何か」 「人とはどうあるべきか」という倫理観を具現化する象徴的存在として受け入れられたからだという。司馬遼太郎は 当時の庶民の倫理観を培う上で、こうした浄瑠璃の影響が色濃くあったのではないかと指摘している。

 カムチャツカの長い冬、この錦絵を見てわが身を慰めながら嘉兵衛は、あるいは小さな声で呟〔つぶや〕いていたかもしれない。

「高田屋の嘉兵衛は男でござる」

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