昭和 60 年 (1985) 、淡路島と四国が橋で結ばれたのを記念して、兵庫県が淡路島の経済と文化を振興しようと、くにうみの祭典を開催しました。昭和の辰悦丸は、この事業に賛同した寺岡造船が、この式典会場用に陸の船として建造、兵庫県に寄贈したものです。
本船を帆走させて2500kmに及ぶ往時の北前航路を結ぼうという計画は、北海道江差町の若い方々の熱意によって始まった事業でした。世の中を変える三つのモノがあるといいます。一つ目がワカモノ、二つ目がヨソモノ、最後がバカモノです。この航行イベントにあたっては、正に若者とよそ者が事業の中核を担ったわけです。
事業の中心メンバーであった荻原猛志さんは、 NHK のインタビューに応えて、次のようにおっしゃっています。「自分たちの町も過疎化が進むけれども、心まで過疎化してしまわないように」
本事業を通して、高田屋嘉兵衛を全国区にしてくださった荻原さんをつかまえてバカモノ呼ばわりはバチがあたるかもしれませんが、荻原さんの呼びかけに応えて、北前航路を結ぶ日本海瀬戸内海の寄港地の青年会議所の皆さんが手を挙げてくださいました。故郷を思い、無私無欲でこの事業に奔走していただいた幾多のバカ者たちのおかげで、本事業が実現いたしました。
淡路島での本フォーラムの開催にあたり、思いがけず 30 年振りに、このように皆様に御礼を申し上げる機会を作っていただきました。
第 19 回北前船寄港地フォーラム in 淡路島 において、各寄港地からの来賓を前に小館職員の挨拶
( 2017 年 5 月 13 日)

北前船宣言

いつの時代にも、青年たちの大志が、やがて現実の世界を揺り動かして行く。
私たち北前船回航計画実行委員会は、淡路島で復元建造された「辰悦丸」に日本海を帆走ってほしいと願った。 1986 年 6 月 14 日、この地、北海道檜山郡江差町の江差港に、昭和の北前船「辰悦丸」が、白帆を高くかかげて伸びやかに入港した。百数十年の時間と空間とを超えて、歴史の幻影が、この世の船となって鷗島の島影に浮かんでいる。 5 月 5 日、淡路島津名港を出航し、瀬戸内海から日本海に出てー路北上し、航程 2500 キロメートル、 41 日間の遠征だった。途中に待ち受ける大阪・丸亀・杵築・下関・浜田・境港・美保関・鳥取・竹野・小浜・敦賀・ 三国・輪島・佐渡小木・新潟・酒田・秋田・能代・深浦の十八港に立ち寄った。
未来に瞳を向ける幼い子も昔を知る老人たちも、北前船を見ようと岸壁にうち集い、どよめいていた。先祖の血が自分たちにも脈打っているのを感じた。
ここに再現された北前船の西回り航路は、日本海沿岸のゆかりの土地を真珠の首飾りのように連ねる玉の緒となった。それぞれの町と港の名が広く知れわたり、隣から隣へと手をつなぐひとつの活動領域となった。身近にある歴史的遺産を改めて確認した。これから出来ることは何か。未知の海へと船出した開拓者魂が蘇ってくる。
ここから新日本海時代が始まる。
今、私たちは宣言する 北前船とはアンビシャスな精神の象徴であり、北前船の帆走る日本海は、経済と文化と温かい心の通いあう可能性に満ちた道であると。

昭和 61 年 6 月 21 日 北前船回航計画実行委員会

辰悦丸回航十周年記念碑 1995(平成8)年建立 江差町字鴎島

(碑裏面)

この碑を志半ばで逝った萩原猛志君に捧げる。
1996年6月14日檜山青年会議所シニアクラブ

 

北前船回航計画実行委員会事務局長として、このイベントの中心的役割を担った萩原猛志氏(姥神町で鉄工所を経営)は、イベントの4年後、40歳の若さで急逝されました。

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