著者は松山藩士。暦や占い、民間療法や衣食住に関する日常生活についての様々な雑事などを書きとめた中に、文化11年(1814)、道後温泉に湯治に訪れた高田屋嘉兵衛が、ロシアでの幽囚体験を語って聞かせた内容を人伝に耳にしたという記事が収められていた。文化11年は嘉兵衛がカムチャッカから戻り、「ゴロヴニン事件」が解決した翌年である。嘉兵衛は箱館からの帰路に立ち寄ったのだろうか。
文章中の「三年留マリ居」たのは嘉兵衛ではなく、国後(クナシリ)島で捕らえられたゴロヴニン等ロシア人の方。「安房(あわ)」ではなく「阿波(あわ)」であるなど、伝聞であるが故に内容にも間違いを含んでいるが、当時の国際事件が遠い松山の地へどのように伝わったのかをうかがい知る上で、興味深い史料。